以上12回にわたって、ファッションの歴史のうんちく、といいますか、
ファッションの見方を披瀝させていただきました。
お読みいただきありがとうございました。
元来ファッションは、見て着て楽しめればそれでよいものです。
少なくとも私達日本人にとってはそうです。
しかし西洋人はどうも、哲学的といいますか、思想的といいますか、
あれこれ理屈をつけて考えたがる。
その理屈につきあう必要は無いのですが、
なにしろ「洋服」というくらいで、西洋の人々のファッションがそのまま世界標準になっているので、
問題はややこしくなるのです。
これが例えばアニメのような、日本人が作ってきたものであるならば、
私が今まで述べてきたような知識は必要ないのです。
実際、オタク系の人々は、かなり鋭いことは言いますが、小難しいことは一切言わない。
通常の日本語の範囲内で、コンテンツの全てを表現できているのです。
しかし西洋人は、小難しいことを言わなきゃ気がすまないというか、小難しいことから逃れられないと言うか、そういう性質があります。
これが日本人でしたら、小難しい理屈の変わりに、「道」にするんです。
花器にお花を生けることを、ご大層に「華道」と名づけて、師範制度をつくって、権威をつけてありがたがる。
茶道、剣道、香道、なんでもかんでも道になります。
それと同じように西洋人は、むやみなたらに哲学思想をひっつけて、その思想をありがたがる。
自然に、虚心に愉しむということが、人間なかなか出来ないのです。
個人個人では出来ても、どうしても社会全体で考えると、イデオロギーですとか、権威付けとかが付着してきます。
「私はそれから自由になる」と宣言するのは個人の勝手ですが、
実際的に足かせから自由になるためには、まずもって足かせのサイズ、位置、形状、材質および合鍵の所在地の把握等々が先決問題でして、本稿ではそれらを不完全ながらも明らかにした、つもりです。
現在ファッションは冬の時代です。
なぜ冬かというと、文化の移り変わりは本質的には、
大きな政治の変動をエネルギーとするものだからです。
19世紀西洋人が世界を植民地化した、そのことが、
現在の我々の着ている服を決定する根本的な原因です。
今後中国、インド、イスラムが台頭してゆきます。
中国は文化大革命(という運動が昔ありました)によって、
自国文化をかなり傷めてしまいました。
ですから新しい文化というには少々厳しいかもしれません。
しかしインドの服飾文化は依然巨大なポテンシャルを秘めています。
イスラムのドレスは、現在すでに我々の眼に触れるようになってきています。
彼らの台頭により、ファッションの歴史は再び動き出します。
アメリカ人が「インド人になりたい」と願うほど、
それほど両者の経済力が逆転してしまえば、又違う歴史を書かなきゃいけなくなると思います。
それはおそらく、当分先の話なのでしょうけれど。