短期攻略ファッション史・13・終わりに

以上12回にわたって、ファッションの歴史のうんちく、といいますか、
ファッションの見方を披瀝させていただきました。
お読みいただきありがとうございました。

 

元来ファッションは、見て着て楽しめればそれでよいものです。
少なくとも私達日本人にとってはそうです。
しかし西洋人はどうも、哲学的といいますか、思想的といいますか、
あれこれ理屈をつけて考えたがる。
その理屈につきあう必要は無いのですが、
なにしろ「洋服」というくらいで、西洋の人々のファッションがそのまま世界標準になっているので、
問題はややこしくなるのです。

これが例えばアニメのような、日本人が作ってきたものであるならば、
私が今まで述べてきたような知識は必要ないのです。
実際、オタク系の人々は、かなり鋭いことは言いますが、小難しいことは一切言わない。
通常の日本語の範囲内で、コンテンツの全てを表現できているのです。

しかし西洋人は、小難しいことを言わなきゃ気がすまないというか、小難しいことから逃れられないと言うか、そういう性質があります。

これが日本人でしたら、小難しい理屈の変わりに、「道」にするんです。
花器にお花を生けることを、ご大層に「華道」と名づけて、師範制度をつくって、権威をつけてありがたがる。
茶道、剣道、香道、なんでもかんでも道になります。

それと同じように西洋人は、むやみなたらに哲学思想をひっつけて、その思想をありがたがる。
自然に、虚心に愉しむということが、人間なかなか出来ないのです。
個人個人では出来ても、どうしても社会全体で考えると、イデオロギーですとか、権威付けとかが付着してきます。

「私はそれから自由になる」と宣言するのは個人の勝手ですが、
実際的に足かせから自由になるためには、まずもって足かせのサイズ、位置、形状、材質および合鍵の所在地の把握等々が先決問題でして、本稿ではそれらを不完全ながらも明らかにした、つもりです。

 

現在ファッションは冬の時代です。
なぜ冬かというと、文化の移り変わりは本質的には、
大きな政治の変動をエネルギーとするものだからです。
19世紀西洋人が世界を植民地化した、そのことが、
現在の我々の着ている服を決定する根本的な原因です。

今後中国、インド、イスラムが台頭してゆきます。
中国は文化大革命(という運動が昔ありました)によって、
自国文化をかなり傷めてしまいました。
ですから新しい文化というには少々厳しいかもしれません。

しかしインドの服飾文化は依然巨大なポテンシャルを秘めています。
イスラムのドレスは、現在すでに我々の眼に触れるようになってきています。

彼らの台頭により、ファッションの歴史は再び動き出します。
アメリカ人が「インド人になりたい」と願うほど、
それほど両者の経済力が逆転してしまえば、又違う歴史を書かなきゃいけなくなると思います。
それはおそらく、当分先の話なのでしょうけれど。

短期攻略ファッション史・12・川久保玲

三宅さんによって、
西洋人の服飾観は崩壊させれらました。
ところがさらに、東洋人が乗り込んできて崩壊を押しすすめます。

「グラマラスな肉体も、あくまで相対的な価値観ですよ」

元来洋服は、マッチョ主義者の西洋人の服として発展してきました。
マッチョが至上価値→
ボンキューボンの曲線を強調→
だからパターン(型紙)が重要という流れです。

だいたいヨーロッパは、北にありすぎて穀物があまり実らない。
中世ドイツの麦の収穫率なんか3倍です。一粒蒔いて三粒しか収穫出来ない。
アジアで栽培されていたイネ、お米は200倍以上あります。一粒育てて200粒収穫できる。
それに比べればほぼ収穫ナシと言っていいくらいの量です。
だから穀物はほとんど食べられない。
豊かだから肉しか食べないというよりも、穀物栽培が出来ないから肉ばかり食べる、それが昔のヨーロッパの実態です。
だから昔のヨーロッパは、面積のわりに人口が少ないのです。

肉ばかり食べていれば、当然体はマッチョになります。
マッチョな肉体を誇示する服が発達するのは当たり前です。
はじめにマッチョな肉体があって、それを表現するために、型紙や、生地や、デザインが発達する。

そのマッチョ肉体→マッチョ肉体用の服という西洋人の脳内にできた自動化された思考回路に、
川久保さんは穴を開けました。具体的活動としては、服に穴を開けたのです。そのまんまですね。

そうしたら穴からガスが漏れた。
マッチョ至上主義、
マッチョ至上主義に支えられたファッション観
マッチョ至上主義を前提にしたデザイン
それら全てが、シューっという音と共に漏れてしまって、
しぼんでしまって、残ったのは、価値観の無い世界、「こうあらねばならない」という前提の無い肉体でした。

三宅さんが、服の作り方という外側から行った仕事を、
川久保さんは、内側から、人間の肉体に関する価値観から、
おこなっていったのです。

思い起こせば、
ヴィオネは、体にぴっちりした服を作っていましたが、
それは体の曲線を外から見えるようにするためです。
そのためにヴィオネは、型紙技術の限りを尽くした。
バレンシアガは、ぴっちりとした服ではありませんが、
体の曲線を暗示するように服を作っていました。
デザイン、型紙、素材、裁縫、全ての条件を整えて彼はそれを実現しました。
そういうエンジニアタイプの仕事の、前提の前提になる、
「マッチョな肉体が良いのだ」という価値観全体を、
川久保さんは壊したのです。

ちなみに川久保さんは、元来哲学を学んだ人で、
服飾のトレーニングは受けていないはずです。
ポワレ・シャネルのような、政治家タイプのデザイナーさんです。
彼女が、エンジニアタイプのヴィオネ・バレンシアガの存在意義をなくしてしまう。

くちなし

前回三宅一生さんのところでご説明しました。
政治家タイプのポワレの命脈を、エンジニアタイプの三宅さんが絶つ。
それと逆といいますか、同じといいますか、大変興味深い流れですね。

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短期攻略ファッション史・11・三宅一生

日本人のデザイナーを取り上げます。
三宅一生さんです。
もちろん有名な方ですが、
「なぜ三宅さんが西洋であれほど高い評価を受けたか」
ご存知ない方も多いと思われます。
これは今まで述べてきたような、
政治家タイプのデザイナー(ポワレ・シャネル)
エンジニアタイプのデザイナー(ヴィオネ・バレンシアガ)
の4人の仕事を知らないと、理解できにくい点なのです。

西洋人は前述のように、
何が何でも体にぴっちりした服を着て、
なにがなんでも曲線を強調しなきゃいかんと思い込んでいました。

それは結局、コルセット拘束競争の様相を呈してしまい、限界にぶちあたり、
そしてヴィオネやバレンシアガが、その技術的問題を解決してゆきます。
それが20世紀服飾の発展の歴史でした。

そこに、そもそもぴっちりした服を着る伝統の無い人、
曲線を強調する必要性を感じていない人が乗り込んできて、
あっさり言ってしまいました。

「そんなの、必要ないでしょう」

服は体を覆うものであり、
要は人体を梱包さえすれば必要が足ります。
西洋人以外の人種は基本的にそのように考えていて、
特に農耕民族の服はそうです。
インドのサリーなんかが代表例ですが、
体に巻きつける一枚の布に過ぎません。

「そうですよ、これも服なんですよ」

と言われて、西洋人は後頭部をハンマーで殴られたようなショックを受けたのです。
結局、ヴィオネ、バレンシアガの努力も、肉体を表現する服としての文脈の中での努力だったのです。

それらを無駄な努力とは言いませんが、文脈から外れて客観的に見てみれば、より多くの選択肢が存在していました。
その選択肢に気が付いたその瞬間に、西洋人は自分達の服飾の価値観の特異性に気づき、その価値観を相対化するようになり、
西洋至上主義から強制的に脱却されるようになります。
帝国主義からも脱却せざるをえなくなります。
西洋人の、眼そのものを破壊するというか、変えるというか、そういう効能がある仕事なのです。

最初にご説明した、
コスプレ帝国主義者のポールポワレさんは、三宅さんによって完全に命脈を絶たれたのです。
ちなみに三宅さんは、
元来バレンシアガにあこがれて渡欧した方で、ヴィオネの研究書の監修者でもあります。
エンジニアタイプのデザイナーさんです。

特に女性の皆さんには、知名度の割りに比較的受けの悪い方ですし、
渡辺貞夫と区別のつかない方も多そうですが、
そのような巨大な意味を持つ活動をされたかただということを、
是非記憶に留めておいてくださればと思います。

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短期攻略ファッション史・10・サンローラン

少し前になくなったサンローランを取り上げます。
この人はわりと折衷系です。
エンジニアタイプのヴィオネ、バレンシアガ的要素もあり、

体からは離れたライン、体の曲線を強調せず、暗示する。
ということはつまり、サンローランはパターン(型紙)能力も大変高かったはずなのですが、
まだ死後間もないので、あまり逸話としては出てきていません。

代表的な仕事は、パンタロンとサファリルックです。

前者はシャネルの系譜ですね。女性解放系の服です。

後者はもちろん、ポールポワレの帝国主義です。
ご本人は人種差別の無い、立派な人だったようですが、サファリルックというのは言うまでも無く白人のアフリカ旅行アフリカ冒険の服でして、
サファリに実際住んでいる人々の服ではない。
ではなぜサファリルックが受けたのか考えた場合、やはり根底には帝国主義の残存があるだろうと思われるのです。

アフリカはアジアよりも、植民地待遇からの独立が遅れました。
そしてサンローランは、ディオールの後を継いだ人です。
ディオールはベトナムの帽子、サンローランはサファリルック、デザイナーと時間的配置と、政治事件の時間的配置は一致しています。

これまたくどいようですが、
だからサンローランがダメとは全く思っていません。
そうではなくて、
ファッションデザイナーというのは、
あくまで社会の中に存在している職業ですので、
その時、その時の社会事情の理解が、ファッションの理解にはどうしても必要なのです。
人々が大量破壊兵器を欲してる時代ですと、アインシュタインは天才と呼ばれますが、
彼が中世に生まれても、おそらく世間の注目は集めなかっただろうと。
だったらアインシュタインの理解の努力の70%くらいは、当時の世界の状況理解に裂かなきゃならないだろうと、
そういう主張を本稿ではしております。

バレンシアガのエンジニア的要素と、ポワレ・シャネル的な政治家的要素、
両方を併せ持つサンローランが帝王と呼ばれたのは、私には大変納得のゆく話です。

おそらく、洋服自体の根本的な発展の歴史は、バレンシアガで終わってしまい、
服およびファッションという意味での発展の歴史も、サンローランで終わったのだと思います。

以前書いたように、西洋人は頭が固い。
その頭の固い連中が、時代の流れによって世界中に進出するようになり、世界中の服を見て、それらに影響を受け、
悶絶しながらそれらの価値観を消化してゆく作業、それがファッションの歴史だったのです。

しかし第二次世界大戦くらいでほぼ、未開拓の土地、つまり西洋人の価値観の及んでいない地域が、地球上からなくなってしまいました。

収集した情報は、ヴィオネやバレンシアガのようなエンジニアが、(たとえとしての表現ですが)コンピューターに入力して、解析を終了してしまいました。

そしてファッションの夏は終わったのです。
これ以降も優れた人材は沢山輩出されていますが、それとは関係なく、夏という季節が終わったのです。

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短期攻略ファッション史・9・ディオール

女性誌によく登場するデザイナーの名前、それらが有名なのは良く知っているが、どうして有名なのか、どこが偉かったのか、雑誌をいくら読んでもさっぱりわからないと思います。

この欄で4名のデザイナーを紹介しました。
政治家タイプのデザイナー2人、
コスプレ帝国主義者のポワレ
宝石ニクソンのシャネル

エンジニアタイプのデザイナー2人
パタンナーのヴィオネとバレンシアガ

これら4名の中身を把握したら、あら不思議、それ以外のデザイナーの仕事の内容も、かつまた有名な理由も、
とんと腑に落ちるようになるのです。だからこの4人がファッション史攻略のツボなのです。
例えば、ディオールから見て行きましょうか。

この写真、服好きの方なら必ず覚えておいて下さい。
ファッションの歴史の中でも、最も有名な写真です。
クリスチャン・ディオールの
「ニュールック」という服の写真です。
発表当時爆発的な人気を呼んだデザインです。

発表されたのは1947年。
「戦争中、女性達は耐乏生活をしいられていた。
戦後発表されたこの大きなスカートを持ったドレスは、
平和で、ファッションを楽しめる時代が来たというメッセージ性から好評を博し」
うんぬんというのが、よくある説明です。
実際問題、戦争中はこんなスカートは履けなかったわけで、
間違った説明ではないと思いますが、
いままで説明してきたファッションの歴史を理解されている方々には、
別の視点があるでしょう。

そう、気になるのは帽子です。
どう見てもベトナムの帽子ですね。

ベトナムというとベトナム戦争、アメリカの勢力範囲だった、とお思いかもしれませんが、
ベトナムは昔、フランスの植民地だったのです。
第二次世界大戦前は、
仏領インドシナ、略して仏印と言われていました。
そこに攻め込んだのが旧日本軍です。
結局日本軍は負けて、再びフランスが取って代わってベトナムの支配者になった、
だいたいそのころに発表されたのが、この「ニュールック」です。

つまりこれは、ポールポワレの系譜を継ぐ、
コスプレ帝国主義でして、
これを見たフランス人達は、
「ベトナムの支配権を取り戻したぞ、再び昔のような世界帝国をつくってやろう」
という感慨で熱狂した、はずです。
実際にはこの時点から既にベトナムにおける共産主義勢力、
つまり中国の勢力が非常に強くなっていて、
結局はフランスは植民地を失ってしまうのですが、
ともかくもこのニュールックは、
フランスが世界帝国として強大であったときの、夢の名残のような、
そんな服なのです。
くどいようですが、だからディオールはだめだとか、そういうことは思っていません。
ディオールは上品で趣味の良い服をデザインする才能のあった人ですが、
系譜としてはポワレにつらなる人物である、ただそれだけのことを表現しただけです。

この人自身は裁縫もパターン(型紙)も出来ません。
もともと美術志向で、生活のためにドレスのデザインラフを描いていたのが、
服飾とのかかわりあいの始まりです。

しかし仕上がったものを見ると、
「デザイナーとパタンナーと縫い子が1週間同じ部屋に缶詰になって、ドレスを1着作ったのではないか?」と思われるほど、
それほどしっかり作りこんでいます。

バレンシアガやヴィオネのように、 作る前のイメージを、型紙だけで一発で完璧に作り上げている、という雰囲気ではありませんが、
細部にいたるまで丁寧に、執念をもって作りこんでおり、当時のフランスの服飾業界の人材の豊富さを伺わせるに十分な内容です

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短期攻略ファッション史・8・服の建築家2

ヴィオネさんに引き続き、
バレンシアガさんです。

バレンシアガさんも、服の建築家と呼ばれています。
歴史上の優れたパタンナー(型紙を作る人)を挙げるとすると、
まず間違いなくヴィオネとバレンシアガのうちどちらかが一位、
どちらかが二位になる、そういう人です。

この人を最も端的に表現しているのは、
ココ・シャネルの賛辞、「バレンシアガだけが本当のクチュリエだ」
という言葉です。

「彼だけが、デザインをし、型紙を作り、縫い上げるという、
全ての工程を一人で出来る。
彼だけが本当のクチュリエだ」

実際シャネルさんは、縫いは名人だったようで、
デザインももちろん素晴らしいのですが、
前述のように型紙能力が不足していました。

そういう分類では、ヴィオネも全て一人で出来るひとだったのですが、なにせシャネルの目の上のたんこぶ的存在だったので、別に賛辞は送っていません。
ヴィオネはシャネルよりだいぶ年上ですし、シャネルのことを「あの帽子屋」と馬鹿にしていたようなので、シャネルとしても誉めるわけにはゆかない。

これまでヴィオネの説明のために、
西洋人の服飾観というか身体観を色々説明してきました。
バレンシアガも歴史に残る人物だけに、
服飾に画期的な貢献をしました。

それは、「そもそも、服をぴっちりつくらなきゃいいのだ」ということです。画像ご覧下さい。

生地が身体から離れています。なんとなく中の体のラインを想像はさせますが、ぴっちりとは作られていません。
これによって、やせた人でも、太った人でも、あるいは姿勢がわるくなったおばあさんでも、 体型を気にせず服を着ることが出来ます。

バレンシアガの服のデザイン、好き嫌いはあるかと思いますが、
それでもデザイン、生地選択、型紙などの総合的な意味合いで、
服飾の歴史の中で、バレンシアガだけが唯一の、そして残念ながら最初で最後の、
本物の芸術家であったと言えます。

全てが一貫しており、自分自身でない要素がなにひとつ無い。
まさに「別格」ではあります。

バレンシアガの魅力を紹介するページではありませんので、
別のページをご紹介しておきます。
私はこのページの作者と面識ありませんが。

http://www10.plala.or.jp/dorimi/Blenc/baren.html

文中「カッティング」とか「裁断」とか書かれている部分が、
バレンシアガのパターン(型紙)能力を表現していますので、そのつもりでお読みください。

そんなバレンシアガ自身の作品の評価は別にして、
西洋の服飾の歴史の中での彼の意義をここで要約しますと、

1)元来西洋人は、からだにぴっちりとした服、曲線の強調が好きであった
2)それはコルセットのような、体を強く拘束するしくみが必要だった
3)身体的にあまりにも不自然な努力だったので、拘束なしの服を作り始めた(ポワレ、ヴィオネ)
4)拘束なしで出来るだけ曲線を表現できるように、服の作り方が変わっていった(ヴィオネ)
5)それでもそれらの服は、肉体をありのままに表現するので、体型の優れた人しか楽しめなかった
6)体から離れた服を作ることによって、体型が万全でなくとも美しくみえる服が開発された(バレンシアガ)
となります。

これらの開発の歴史はそもそも、西洋人が肌を見せたくなく、かつ体の曲線を表現したい人種だから生まれてきたことであって、東洋人の私から見れば、かなり無駄な試行錯誤です。しかし西洋人というものは、頭が固いのです。逆に言えば日本人の頭が柔らかすぎる。

昨日まで「尊皇攘夷」と叫んでいた人間が、今日は「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」 と言い出す。
昨日まで「鬼畜米英、大日本帝国万歳」と言っていた人間が、今日は「軍国主義反対、民主主義万歳」と言う。
一夜にして価値観をころりと180度転換して、なんとも思わないのが我々日本人です。

西洋人は徹底的に自分の考えにこだわって、なんでもかんでも哲学化してしまう。哲学化した以上、その考えは簡単には変更不能になってしまう。偉いといえばえらいのですが、どんくさいと言えなくもないですね。

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短期攻略・ファッション史・7・服の建築家1

というわけで、ヴィオネさんです。

ファッションというより、法律あるは建築系のキャラクターですが、
実際彼女は「服の建築家」と呼ばれています。
彼女の優れている点は主に技術的なことなので、
一般の方が見ても特に面白くはないと思いますが、

一言で言えば、
「からだにぴっちりした服を、出来るだけ縫い目が少なく作る努力」
をした人です。

縫い目が少ないほど、ドレスは柔らかくなりますから。
「女性が笑う時、ドレスも笑わなければならない」
という名言は彼女が残したものです。

最も特筆すべきはその計算能力でして、
ドレスが最終的にどのようなフォルムになるのか、
そのために設計図をどうすればよいのかを、
彼女が完全に熟知していることが、服屋稼業をしている人間にとっては、よくわかるのです。
デザインの好き嫌いは別にして、能力値としては恐ろしいほどです。

思い出すのは昔、お客様とお話していたとき、

彼女は建築関係のお仕事をされていて、
建築デザインではなく、強度計算のほうなのですが、
「計算ばっかりやっていると、
建物を見るだけでその建築家の計算能力がだいたいわかるようになる。
有名な建築家でも、工学の計算が苦手な人は結構いる。

だれだれさん(現在日本の代表的建築家の一人)は、強度計算の部分は本人が出来ずに外注しているはずだ。
だれだれさんは(過去の日本の代表的な建築家の一人)、本人が計算していたかどうかは別として、相当できる人だ、
だれだれ(歴史上の大建築家)は、計算したという話は聞いたことがないけど、かなり出来るはず、
だれだれ(こちらも歴史上の大建築家)は苦手そう」と言われていて、なるほどどの業界でもそういう話はあるんだなあと思いました。

ヴィオネさんの少し後輩のシャネルさんは、大変デザインセンスが良く、革新的な考えかたを次々に生み出せる天才でしたが、
服製作の計算能力という点では、現在の水準からは問題外の低レベルです。

今のシャネル、ラガーフェルトのシャネルはもちろん現代のアトリエですのできっちりつくっているのですが、
シャネル自身が作ったものはその場しのぎでしか作れていないのが、わりとよくわかる服です。

ただ言っておきますが、
計算能力が低くても建築家の価値が下がらないように、
計算能力が低くても、シャネルのデザイナーとしての価値は下がりません。

 

そしてシャネルは映画になり、
ヴィオネのほうは、服飾学校で今も研究対象になっている
というわけです

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短期攻略ファッション史・6・西洋人の服飾観

久々の更新になりました。
忙しくて更新できなかったのもありますが、
以下の画像を掲載するかどうか悩んでいました。
実はまだ悩んでいます。ドレスショップにはあまりにもふさわしくない画像なのです。

ですのでその前に歴史的な背景を説明いたしますと、
だいたい南方農耕民族の服はわりとからだにゆったりした構造で、
北方騎馬遊牧民族の服はからだにぴっちりした服です。
チャイナドレスは体にぴっちりしていますが、
これは清朝の支配者階級、当時満州に居住していた、女真族という騎馬民族の服がチャイナドレスと呼ばれている、というだけの話で、
漢民族の伝統服は、基本だらりとしています。

西洋人もギリシャ、ローマまでは農耕系のゆったりした服でしたが、
ゲルマン民族が大挙襲来してから、基本ぴっちり系の服になりました。

さてそれで、ぴっちり系の服の民族は、「肌を人前にさらしてはいけない」という倫理道徳がなぜか成立するのです。
逆にゆったり系民族は、わりとそこらへんルーズです。今の私たちの感覚では、西洋人のほうが露出度が高いのですが、
幕末日本に来た西洋人の日記など読むと、当時は違ったようです。

「~私たちが街中を通り過ぎると、異人が来たといって日本人が騒ぎ出し、
銭湯に入っていたうら若き女性が、裸のまま道端に飛び出してきて、
口をぽかんと開けたまま、珍しそうに私たちを眺めていた」

とかなんとか書いた日記が残っています。

実際、地方出身50代の私の子供時代には、夏場になると上半身裸のお婆さんや、
田んぼにお尻を突き出しているお婆さんが(つまり、少しでも肥料にしようということです)
ごくごく普通に存在していたのでございます。

と、ここまで書いて、問題の画像です。

西洋人の服飾観はつまり、こういうものです。
なんと馬鹿げたと、女性の皆様はお笑いになると思いますが、とにかくこれが連中の発想の基本にある以上、どうしようもありません。

絶対に素肌は見せない、それでいて可能な限りにセクシーに、その2点が至上命題にして最優先課題なのであるから、少々コミカルになるのは、まあ大目に見ようじゃないか、という感じですね。

こんな格好してまで女性の目を引きたいならば、フンドシでもすればよいのに、と思うあなたはつまり、肌の露出には寛容で、セクシーさはさほど要求しない農耕民族の末裔というわけです。

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短期攻略ファッション史・5・洋服のパターンの重要性

ヴィオネが三番目になりましたが、
この話題で触れる4人の中では、一番古い人物です。
生没年を記入しますと、

ヴィオネ:1876~1975
ポワレ:1879~1944
シャネル:1883~1971
バレンシアガ:1895~1972

となります。一番早く生まれて、一番遅く亡くなっています。享年99!。
一般に、ポールポワレが女性をコルセットから開放したと言われていますが、
ヴィオネによれば、彼女が開放したのが早いらしくて、そこらへんの事情は混沌としているのですが、だいたいそんなふうなライバル関係です。

それでこの人は、パタンナーとしては、今日でも過去最高と言われる存在です。

洋服が他の服と大きく異なる点は、
パターン(型紙)作りの重要性が高いということです。
和服なんかは、だいたい決まりきった大きさで作りますね。
丈が長すぎたら、着るときに折り込んでしまう。だからパターン(型紙)の重要性が低い、
そのかわり生地を作るのが大変で、良い生地でないと着物にならない。
縫いも非常に繊細で、場所によっての縫い方の変化は繊細を極めますが、
それでもパターン的な苦労は(やったことありませんが)おそらくほとんど無い。

料理で考えるとわかりやすくて、日本料理は鮮度の高い素材を、
簡単な調理方法、例えば刺身ならば切るだけ、
もっとも名人になると高度な包丁捌きをするそうですが、
それでも悪い魚だと、名人でもどうしようも無いわけでして、
素材重視というか、素材に依存しきった料理体系です。

西洋の料理はぐつぐつ煮込んで、ソースを作って、
よく言えば知的で立体的ですが、悪く言えばあまり食材は良くなさそうだなあと、そんな感じがあります。

同じように、洋服はその知的で立体的な部分が、
大変重視されるのですが、
それはほとんど呪いに近いくらいでして、
1)着る人の体に、サイズがぴったり合っていなくてはならない。
2)人間の体の曲線を、演出しなければならない。
という二つの条件を、なにがなんでも満たさなければならないのです。
まずはこの写真ご覧下さい。

この絵に描かれているおじさんはルイ14世というひとなのですが、
実は、自分の脚線美に自信を持っており、
それを強調するために、わざわざタイツを穿き、わざわざ服の裾を跳ね上げているのです。
嫌な自信ですね。
足のポジションが、なんとなくレースクイーンのそれに似ているのも腹立たしいです。

しかしともかくもこれが、洋服の原理と言うべきものです。
こちらの写真と比べてください。

どちらが美しいかは別として、どちらがセクシーかと聞かれれば、
(むかつきますけど)前者と答えざるをえないでしょう。

大人しく穀物を食んで過ごしていた我々と違って、むこうは肉食民族ですから、
むきむきの肉体をどこまでも誇示して行く、そういう路線なのです。

しかしここで疑問に感じるのは、「だったらぴったりした服を作るよりも、
もっと積極的に肌を露出したほうがセクシーではないのか?」
ということなのですが、それについての話がまたもや少々面倒なので次回にします

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短期攻略ファッション史・4・シャネル~宝石ニクソン

ココ・シャネルについて説明するには、しばらく相当退屈な話にお付き合いいただかなくてはなりません。

私たちは今、紙で出来たお金や、預金通帳に印字された金額や、ネットバンクをしていてパソコンの画面に映された数字を、「これはお金なんだ」と信じ込んでいます。

でもそれは歴史的に見て、かなり新しいことなのです。大昔の人が見たら、「そんなもんは詐欺だ、だまされるな」と言ったと思います。

昔はお金といえば、金(きん)そのものでした。
小金虫さんが金持ちになられたときには、金蔵を建てて、そのなかに金(きん)そのものを蓄えていました。

ところでお金というものは、皆が日常的に使うものです。ですからある程度の量が必要です。

そして皆が日常的に、沢山使えば使うほど、商業の取引量が増えて、景気がよくなって、
つまり、経済が発展するのです。
つまり、皆が豊かになるのです。

でも、採掘された金の量は限られていますし、その少ない金のなかから、小金虫さんのような人が、自分の金蔵に蓄えてしまいます。
これではとても、普通の人が使うお金がありません。流通する絶対量が少なすぎるのです。だからと言って金を急に沢山採掘できるってわけでもない。

そこで人類は考えました。「金引き換え券」をつくろうと。
それを沢山印刷して、金の変わりにしようと。

小金虫さんの持っている金と同額の金引き換え券を印刷すれば、
お金の量が2倍になります。ちょっとずるをして、
小金虫さんの持っている金よりも多くの引き換え券を発行すれば、
お金の量は一気に何倍にもなります。

これは大変いいことですね。
皆がお金を使えるようになります。

もしも引き換え券を持った人全員が、
いっぺんに金との引き換えを希望して殺到すると困ります。
なにしろそれだけの金は、もともと持っていませんから。
でもみんなが豊かになるためにはこれしか方法がない。
多分みんな小金虫さんを信用しているから大丈夫だろう、、、

これが、今日の紙幣の起源です。
小金虫さんは、中央銀行と呼ばれるようになりました。
日本でしたら、日銀ですね。

リズロン

そして、便利ですので、中央銀行は、3倍、5倍、10倍と、
発行する紙幣をどんどん増やしてゆきました。
でもみんな、そのほうが商取引が活発になるので、気にしませんでした。

(そりゃそうです。 紙幣が増えて、商取引が活発になったほうが、人間は豊かになれますからね。
自分たちがリッチになるための工夫に対して、どうして文句をつける必要があるでしょうか?)

そのうち、日本の小金虫さん、つまり日本銀行が、
金との引き換えを完全にとめてしまいました。
だれも、気にしませんでした。
世界中の小金虫さんも、次々と引き換えを停止しました。
だれも、気にしませんでした。

そしてとうとう、その時が来ました。
最後まで引き換えをしていた、
アメリカでも金との引き換えが停止されたのです。
ニクソン大統領がその決断をしたのは、
1971年のことでした。
これ以降、紙幣は金と切り離された存在になりました。

と長々と説明してきましたが、
もうお分かりだと思います。

ココ・シャネルという存在の、最大の意義は、
本物の宝石で出来たダサいアクセサリーより、
よくデザインされたイミテーションのアクセサリーのほうが、
価値があるのだと、そのように言い始めたことにあります。

宝石は金と同じで、急に沢山採掘しようとしても、
できるものではありません。
だからシャネルがそういっても、だれも、文句をつけませんでした。

(そりゃそうです。豊富な選択肢を持って、自由にコーディネートしたほうが、
女性は美しくなれますからね。
自分たちがより美しくなれる工夫にたいして、どうして文句をつける必要があるでしょうか?)

そんなわけで、ファッション界は、
政治的にはポワレによって、
経済的にはシャネルによって、
完全に近代社会に対応したものに変貌したのです。

それにしても不思議です。
引き換えることが出来ないほどの額の引き換え券を発行するなんて、悪いことです。
でもそれを、物凄く大規模にすることによって、人類は発展し、豊かになりましたから、
良いことになるのですからね。変な理屈です。

この理屈、なにかに似ていますね。
そう、
「一人殺せば殺人犯、一万人殺せば英雄」
という理屈です。

ここらへん、政治と経済の二つの切り口から見た、
人類社会の持つ、大きな、実に大きな、闇の部分の断面と言えそうです。

ともかくもこれで、
ファッション界が近代社会に適応するための、
政治的、経済的環境は整いました。

あと必要なものは、
機関車、黒船、自動車、飛行機、パソコンなどを作る、
エンジニアたちです。
ワットやニュートンが必要になってくるのです。
といっても所詮は服屋ですので、
複雑な方程式が必要というわけではなく、
パターン、つまり型紙の開発が全てです。
次回はマドリーヌ・ヴィオネについてご説明いたします。

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短期攻略ファッション史・3・ポワレ~コスプレ帝国主義者

彼の本質、存在意義は、
1枚の写真を見ればだいたい分かります。

典型的にオリエンタリズムな服装ですが、
ポワレはこんなことを、
世界中の衣装でやっていました。
着物風ドレスあり、
中国風ドレスあり、
こういうことはつまり、
「着て楽しむ文化人類学」とでも言うべきもので、
その根底にあるのは、
帝国主義です。

近代ヨーロッパは、
全世界をその支配下におきました。
支配者サイドに立った人間は、不思議なもので、
やみくもな収集癖がつくのです。
全部の資料を集めたい、
地球上の人々の全ての情報がほしい。

今日そういうことをしているのが、
Googleという会社でして、
地球上の全ての場所の地図と衛星写真が見れる、
全てのウェブサイトが検索できる、
そういうことをやっていまして、
それでGoogle内部では、
「自分たちは地球政府を作るための仕事をしている」
と、そういう意識でやっているそうでして、これなんかネット帝国主義とでも言うべき気宇壮大な志ですが、
ポール・ポワレと、彼を支持した当時のパリの人々は、今日のGoogle社員のような気持ちで世界中のコスチュームを、わがものにしようとしていたのです

というわけでポワレの説明は終わりで、
googleのおかげでわりと簡単に済んだのですが、
次のシャネルは少々やっかいです。

世の中というものは、政治と経済で出来ていまして、
近代社会の政治をファッションで体現したのがポワレならば、経済を体現したのがシャネルなのですが、
その経済の話に少々、基礎知識が必要なのです。

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短期攻略ファッション史・2・写真とファッション

ファッションデザインは、
政治家タイプの
ポール・ポワレと
ココ・シャネル。

エンジニアタイプの、
マドリーヌ・ヴィオネと、
クリストバル・バレンシアガ

この4人に集中していると言いました。

この4人で、絵画ならルネサンスからピカソまでくらいの、
それくらいのウエイトがあります。
それはなぜなのでしょうか。

その理由は服の製作者の知名度が十分に上がったのは、
ようやく19世紀終わりごろからだからです。
期間的に短いのです。

画家で考えましょう。
昔の画家は、例えば
「高名なミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画」
などを実際に見学に行って、
絵を勉強しました。

その画家は当然、ミケランジェロの影響を受けます。
そんでもって、その画家の弟子も、
(師匠がミケランジェロの影響を受けていますから)
当然ミケランジェロの影響を受けます。

そうやって、名の知れた画家の作品は、
後世に影響を与え続けます。
絵が残り、名前が残っている限り、
影響は続きます。

しかし服は、絵のようには残りません。
実用品ですから、擦り切れてしまって、消えてなくなるのです。

古い服装を研究する人は、
当時の絵画を参照しますが、
画家が服の内部構造を理解できて描いているわけではありませんからね。
資料にはなりますが、あんまりあてにならないのです。

 

だからこそ、ファッションデザイナーなる職業の存在の基盤は、
写真にあるのです。
写真が発明されたのが19世紀前半、
誰でも使える道具になったのが、19世紀末、
Vogueの創刊が同じくらいです。

写真というかたちで、服のデザインが、服の流通以上の広がりで流通してゆく。
そしてようやく、ファッションデザイナーが知名度を持ち始めるのです。

映画という技術が確立したからこそ、映画監督や映画俳優という仕事が発生したように、
ファッションデザイナーと言う仕事が誕生したのは、写真という技術が根本になっています。
あくまでテクノロジーの上に乗っかった存在です。

もちろんそれ以前から服をデザインする人はいたわけですが、ただ服屋さんの責任者さん、という存在でしかなかったのです。
もちろん画家のような知名度のあるひとは一人も居ません。
そんなわけで、美術界や音楽界や文筆界に当たり前のように存在する、「時代を超えて影響を与える、受ける」ということが、この業界では、ほとんど無かったのです。

遅いですね。
服は太古から存在するのに、
服を立案する人が、現在のような存在になったのは、
つい最近のことなのですから。

私たちは、
ミケランジェロの名前を知っていますが、
同時代にイタリアで服を作っていた人の名前は知りません。

それはそれで、良いことでも悪いことでもないのですが、
写真技術の確立を背景として、
「俺はミケランジェロのような存在になってやる」
という野望を抱いた服屋さんが現れました。
それがポール・ポワレなのですが、
長くなりますので続きは次回に。

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短期攻略ファッション史・1・政治家タイプとエンジニアタイプ

ファッション史を要約して説明します。

と言うとかならず、怒る人が出てくるのですが、だいたい歴史とは要約です。
実際に起こったことの全てのディティールの説明は、不可能です。
ですから細かいところはすっとばして、適当に概略だけを述べる。
それを私たちは、歴史と呼んでます。

ファッションの歴史もそうでして、
全ての時代の全てのデザイナーの全ての服の全てのデザインの、、、、
と延々と説明を続けていっても、
膨大な時間ばかり浪費されていって、何も得るところがありません。

要領よく、ポイントを十分に把握して、後は省いてしまうのが得策です。
後の細かい部分は、ポイントさえ理解しておけば、誰でも自然に理解できてゆくものなのです。

ではファッションの歴史のポイントはなにか。

それは20世紀に活躍した、4人のデザイナー、
そのうち2人は「政治家タイプ」で、
そのうち2人は「エンジニアタイプ」なのですが、
彼らの仕事についての知識さえあればよいのです。

政治家タイプのデザイナーは、
ポール・ポワレと、
ココ・シャネル。

彼らは服作りが好きと言うよりも世の中を動かすほうが好きで、その手段として服作りがあった、という人々です。
政治家をはじめとして、広告代理店やテレビ局、映画会社などにも、多く居そうなタイプです。

エンジニアタイプのデザイナーは、
マドリーヌ・ヴイオネと、
クリストバル・バレンシアガ。

かれらは世の中の事にあまり関心が無く、ひたすら服作りを探求してゆきます。
自動車や電機メーカーの、開発部門や工場には、こんなタイプが大量に居そうですね。

乱暴な言い方すぎるかもしれませんが、この4人が分かれば、実はファッション史の8割は攻略済みなのです。
19世紀以前のことも、現代のことも、研究していけない、ということはありませんが、研究する必要は特にありません。
彼ら4人からの類推で、他はだいたい理解できてしまうのです。

美術で言えば、この4人で、
ルネサンスからピカソあたりまで全て網羅しているくらいの、
それくらいのウエイトなのです。

では、なぜそんなに少数の人にウエイトが集中しているのか。
そこらへんのお話は、次回とさせていただきます。

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